台北帝大新聞選譯——台北帝大前傳,有關創校前的一篇報導

按:  這是我在台大校史館工讀期間(2014-2015),本想發表的一篇有關臺北帝大創校前的一篇新聞報導之翻譯。因故,未能正式於「校史漫談部落格」刊登。而在整理故文時,發現此文,就順便整理一下,轉貼於此。      杜英   2018.2.18
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台北帝大新聞選譯——台北帝大前傳,有關創校前的一篇報導

            根據松本巍撰《臺北帝大沿革史》的記載,臺北帝國大學雖創設於日本昭和31928)年327日[即任臺灣總督為上山滿之進[1](かみやま まんのしん,即任:1926.7.16-1928.6.16][註一],依勅令第三十號「帝國大學令」而成立之綜合大學。然大學創設的計劃,則早在六年前,即大正111922)年[即任臺灣總督為田健次郎[2](でん けんじろう,即任: 1919.10.29-1923.9.2時代業已開始。底下請看《台灣日日新報》大正11(1922)1210日第八版的一篇報導。



原文
[標題]臺灣大學
  は單科大學で無く
商、醫、法、文を含んだものと
成るらしい
[內文]
東京特電本年の三月から開校した臺北舊中學構內に新設さろ七年制高等學校の如(ごと)きは官立七年制先鞭(せんべん)をつけたもので同高等學校は今は尋常科一二年丈(だけ)であるが數年後には其卒業生が出來る譯である、さうなると內地大學目下收容力が乏(とぼ)しい處から最近臺灣大學建設必要として大學建設(ぎす)有識者間に唱(とな)へられて居る此間臺灣人杜聰明氏が醫學博士の學位を獲(と?)た程(ほど)で近來臺灣々(おゐおゐ)教育がになつててゐる小公學校なども年々增築されて居る其處(ここ)大學單科大學でなく南支南洋へで商業んだし學問としては特別熱帶醫學研究出來るから夫等(それら)學部以外法、文兩科んだものをてたいと云ふのが當局意向らしい。

譯文
[標題]臺灣大學未來之創設
  似欲涵蓋商、醫、法、文四學科,
  而非單科大學
[內文]
  【東京特電】誠如今年[大正111922)年]三月,於臺北舊中學區域內新開辦的七年制高等學校,實為正式的官立七年制[3]之先設,而此高等學校[4]目前雖僅有尋常科一、二年,然而數年後畢業生即陸續產生,而眼下日本內地大學之可收容的能力極度不足。依此,近來有識者正大力提議,似有必要於臺灣創建大學。而此時,誠如臺灣人杜聰明[5]氏獲致醫學博士學位般,近來臺灣之教育已漸昌盛,小公學校[6]等亦逐年增設,故台灣當地之大學,應不僅為單一系所大學。除商業(預備從事的華南、南洋之商貿所需)、醫學(近來特殊熱帶醫學之研究成果備出)兩學院以外,未來創設的大學亦應包含法律、文學兩學科,此似為當局目前之意向。





[1] 上山滿之進(1869-1938),日本山口縣人,台灣日治時期第11任總督。1895年畢業於東京帝國大學英法科。歷任青森縣參事官、內閣法制局參事官、行政裁判所判定官、農商務省山林局長、熊本縣知事等,1914年出任大隈重信內閣之農商務省次官。1918年-1935年為貴族院議員,屬研究會派。1926716日任台灣總督,任內大事:1927年蔣渭水等在台中組織台灣民眾黨,在大稻埕組台灣工友總聯盟,總督府採分化、懷柔、彈壓與褫奪利權等手段進行分裂原台灣文化協會之組織。1928年台北帝國大學設立。對原住民以高砂族取代蕃族之稱,並積極調查研究;由於台灣銀行對鈴木商店等之不良借貸而引發日本金融恐慌危機,其力防本島更受波及,避免台灣銀行倒閉(此即為台灣銀行事件)。1928415日謝雪紅、林木順在上海法租界成立「日本共產黨台灣民族支部」(即台灣共產黨)。19286月因朝鮮青年趙明河行刺訪台的久邇宮邦彥王之台中不敬事件而引咎辭職。[1]1935年後任樞密顧問官。引自中文維基,。另外,參考日文維基
[2] 田健治郎(1855-1930)日本兵庫縣人,台灣日治時期第8任總督。田健治郎漢學出身,漢詩為其專長,畢業於東京帝國大學,歷任眾議員、貴族院議員、神奈川等縣警部長、遞相等。1895年日本內閣成立臺灣事務局時,即為交通部門的代表委員(後為遞信省通信局長、遞相),開始與臺灣有了淵源。1906年敕選為貴族院議員,1916年任遞信大臣。19191029日成為台灣第一任文官總督。田健治郎任內的治台方針為內地延長主義,即是同化政策。標榜「內台融合」、「一視同仁」、「同化政策」,欲讓台灣人如日本人一般效忠天皇。19239月辭總督職,因關東大地震而返日轉任日本農商務大臣兼司法大臣。第8任台灣總督任內完成許多重大改革,如改革地方制度為五州二廳、以「法三號」取代「三一法」為統治之根本大法,並設府評議會討論律令施行之相關問題。改革地方行政為州市街庄制,並設協議會以備諮詢。廢止笞刑、廢止小學教師帶劍、通過日台共學制度、台日通婚制、任用八田與一工程師修建嘉南大圳、促成東宮行啟(時為皇太子的昭和天皇來臺)之巡禮儀式等。1926年任樞密顧問官。鍾淑敏著有《田健治郎傳》。關於田健治郎1905-1930年以漢文書寫的日記,2000年中研院台史所籌備處業已出版上冊。。。另請參考日文維基
[3] 「官立七年制」:指的是日本二戰前的「旧制高等学校」。旧制高等学校(きゅうせいこ うとうがっこう)とは、高等学校令(1894年および1918年)にもとづいて設置され、1950年まで存在した日本の高等教育機関である。教育内容は現在の大学教養課程に相当するが、当時の学生の気風や地位を考慮すると、高等教育が大衆化した現代にこのような機関は存在し得ないといえる。なお、現在の高等学校と混同されることがあるが、現在の高等学校は中等教育機関であり、旧制の学制においては旧制中等教育学校(その代表格が旧制中学校)がそれに相当する。旧制高校の基本的な骨格は、1886年の中学校令により設立された第一~第五、山口、鹿児島の7官立高等中学校のうち、鹿児島を除く6校を1894年に高等学校令によって改組したときに完成する。この改組により、在籍者の呼称は高等中学校では「生徒」だったのに対し、高等学校では「学生」となった。帝国大学への予備教育を行う「高等中学校本科」は「高等学校大学予科」に名称を改め、修業年限が2年制から1年延長された3年制となった。専門学部は3年制から4年制(医学科のみ4年制のまま)に移行するが、後に学部は順次廃止(帝国大学昇格)ないし専門学校として分離され、高等学校のコースは帝国大学への予備教育を行う大学予科のみとなった1918年の「高等学校令改正」により各地で次々に高等学校が増設され、7年制高等学校が出現し、大学予科は高等科に改称された。見日文維基,「舊制高等學校」。
[4] 「臺灣總督府臺北高等學校」(簡稱為臺北高等學校或台北高校)是臺灣日治時期台灣總督府以在台日人子弟為主的所就讀的七年制高等學校(部份台灣人亦曾就讀該校)。192241日設立,為七年制的高等學校,設校時先設立四年制尋常科,與中學校同程度,由小學生的畢業生或經考試錄取。見中文維基,「臺灣總督府臺北高等學校」。
[5] 杜聰明( 1893-1986),字思牧,台北淡水人,台灣醫師、醫學教授,京都帝國大學醫學博士,台灣史上首位醫學博士(M.D.Ph.D.)。高雄醫學院(今高雄醫學大學)創辦人,史上第1位台灣籍的台灣大學醫學院院長兼教務長和台灣大學代理校長。」見中文維基,「杜聰明」條,
[6] 「公学校」:公学校(こうがっこう)は、日本統治時代の台湾における台湾人の子弟への第一段階の教育機関である。1898年(明治31年)816 「台湾公立公学校規則」、「台灣公立公学校官制」、「公学校令」を施行。1919年(明治32年)及び1923年(大正12年) 公学校規則を修正し、日本内地と同様の教育課程が採用される。1941年(昭和16年)3 台湾教育令を修正し、全島の820の公学校と150の小学校、さらに蕃人公学校を統一して国民学校に改編。見日本維基,「公學校」。

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